あれから22年・・・

4月19日はジャンヌダルクの創業記念日でした。1991年だったからちょうど22年。36歳だったなぁ。「根拠のない自信」だけはあったなぁ。家賃が10万、国金が10万、機械のリース代が10万の合わせて30万毎月5年間支払ってたなぁ。今思うと無鉄砲だったけど、よくやったなぁ。若かったんだな。2人共大病も怪我もしなかったからやってこれたんだ。嫁さんが病弱だったり、事故などで入院なんてことになってたらお手上げだったなぁ・・・。何でもそうだけど、「健康が一番」だ。「無事これ名馬」だ。子育てもしながら家のことも、店のことも売上の管理や業者さんへの支払いの事とかもつつがなくやってくれました。感謝しております。(夫婦喧嘩はしょっちゅうだったけどネ)何年か前のサラリーマン川柳に「タバコより身体に悪い妻の愚痴」というのがあって、「あぁ、うちだけじゃねェんだなぁ」って思わず笑ってしまった。
「変わる世の中変わらぬ鉄則は世の中変わっていく」ということ。創業当時は、近くに聖和学園やデザイン学校があり、お向かいにもスーパーがあり「5の市」にはたくさんの人でにぎわってました。その流れでうちの店もお陰様で売上はありましたね。しかし時は移り、聖和学園やデザイン学校は移転し、スーパーは無くなり、すっかり閑散としてしまいました。当然、売り上げはダウン。1日約3万円ぐらいダウンしたかな。3万っていったら大きいよね。月間で約75万だもんね。自分の給料が飛んだことになる。でも、その間にシダックスからオファアーがあったり2002年のワールドカップのイタリアのカーサアズーリからの注文があったり、(この時は最初はお断りしたのです。1日5・6本しか焼いてないバゲットを毎日100本一か月焼いてくれといわれたので。店の仕事もしなくちゃなんないし窯のキャパシティのこともあるし無理ですと。でも間に入ってた本間青果の人に「江刺さん今何歳?って聞かれて、はい、47歳です。じゃあと30年生きるとしてワールドカップは7回しかないんだよ、生きてるうち日本で開催することはもうないんだよ、これは名誉なことなんだから何としてもやってくれ」って説得されてしまった。本家のル・モンドにも手伝ってもらった。
約1ヶか月とちょっと。3200本ぐらいのバゲットを焼いたなぁ。自分では一生分のバゲットを焼いた感じだったなぁ。6取り展板の2枚差し2段の窯、1段は蒸気出ないやつ。工夫しながら蒸気を入れて焼いた。
今思うと、よくやったなぁって思う。あの設備で、店の商品も作りながらよくやったなぁって。アルバイトの及川香織さん(今、日下香織)も夜遅くまで付き合ってくれた。感謝してます。この時の最大の「学び」は「自信」です。やればできる、工夫すれば何とかなるという「自信」です。
しかし今現在、、新店舗の窯はドイツ製のミベ社の6取り4枚差しの4段窯だけど、もう一回やってくれと言われても俺はもうそんな気力は無いな、息子に任せるわ。(笑い)
ま、そんなこんなで22年いろんなエポックがあって今があります。今までジャンヌダルクを支えてくださったお客様はもとよりその時々の従業員の方々に感謝・感謝です。ありがとうございます。
お知らせ5月5・6・7日はお休みいたします。
いい本見つけた
最近たてつづけにいい本に出会った。「よ~し!やる三 成長日記」。京都の古着屋さんの会社の実際におきた事を解りやすくマンガ本にしたものです。どこの会社も人を育てるのに苦労している。会社を辞めていくのはほとんどが人間関係だと。自分の店でもつい最近一人辞めていった。私も今年から従業員の給料袋に自分の思い、感じたことなどを文章にして入れている。これはみんなで気持ちを一つにして同じ方向を目指してもらいたいからだ。会社やお店は一つのチームなのだから。ジャンヌダルク号に乗って「幸せのパン屋」目指してみんなで楽しく頑張りたい。製菓製パンの技術も大切だけれど、その先にある「お客様の笑顔」を想像する健気さがなければ駄目だ。でないと仕事ではなく、単なる作業になってしまう。作業だと「誇り」は持てない。お客様の笑顔を想像しながら仕事をして自分も少しづつ成長してゆきたい。この「よ~し!やる三 成長日記」をスタッフのみんなに読んでもらってます。そして気持ちを一つにして「幸せのパン屋」を目指してゆきます。6月22日私はフランスに旅立ちます。
